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…ぐつぐつぐつ、ぶくっ。ぐつぐつ………ぶくっ。ぐつぐつぐつ…………
赤べこの店員さんが牛鍋を客席に運んでいたり、どでんと鎮座する鍋を囲ってはふはふ言いながら食べているお客
さんがいたり。いい匂いを音だけで聞かされるのって、ちょっと悔しくてとってもうらやましい。…ああ、僕も輝と一緒に 赤べこで働けたらなあ…なんてね。
百鬼さんと小糸さん、みんなと別れてから僕たちはまた東京に戻ってきた。ちょうど九月の中頃で、秋つ葉の燃ゆる
季節の頃。一日中がまるで黄昏の刻みたいだなあ…なんて言った僕を、輝がうふふと笑うそんな季節だった。
薫さんの道場でお世話になっている間、お土産話に花を咲かせたりみんなの絵を描いたりしているだけの一日は
過ごしていない。輝は妙さんの赤べこを手伝い、僕は玄斎先生と恵さんの診療所を手伝っている。
…というわけで、さっきうらやましいなあって僕が思ったのはそういうことなんだけど……あはは、この場にいないの
においしそうな音を想像してお昼を待ちわびるのもなんだかなあ…あはは。
「お待たせしました、特上牛鍋の五人前です」
よいしょっ…と掛け声を出しそうになるのをこらえて、牛鍋を置いた燕ちゃん。汗を流し、今日も精を出して働いてい
る。厨房のほうは尚のこと、戦場のごとくどたばたしているはず。燕ちゃんも弥彦くんも、そして輝も汗水流した分の行 いが金剛石の如く誇れるのを信じて、その手を休めていないんだよね。…もちろん、僕や恵さんも。
「おいおい、姉ちゃん。幾らなんでも遅せえんじゃねえの?俺ら殺す気かい」
「ほれ、聞いてんの?こっちは客だ。ちゃんと目見て聞けっての」
…伏し目がちになる燕ちゃんだったけど、無理がないとはいえないのかもしれない。というのも…侠客風で棘を逆立
てたような細い目のお客さんが、五人がかりで一斉に睨みつけていたから。袖も裾もよれよれで、まるで畑を荒らす 野犬みたいに見える。
「あ、あのっ…ご、ごめんなさい。ちょうどお昼時ですし…あ、えっと、そ…の………」
…どくんっ、なんて燕ちゃんの拍動が今にも聞こえてきそうで。きっと、頭の中は煮え繰り返りそうなんだよね……
…
「お客さんたあなんだ、あん?神様だろうがよ?犬っころみてえに放ったらかしにしといてよぉ、言うことといやぁ大人
しくしてろってか?!あん!?」
「…きゃあああああっ!」
吠え立てる代わりに、燕ちゃんの胸倉をぐっと掴んだ男。足が浮き上がり、ぶるぶる震える燕ちゃんには…おそら
く、お客さん…ううん、男達の姿が殊更獰猛にしか見え…?!
「…ちょっと。そんなに神様になりたいの?どうしてもなりたいんだったら…………」
うわさをすれば
「痛てててててて!おい、もうちょい…」
「お黙り、因果応報でしょうに。私を拾う神だと思わないと、捨てる神から一生見放されたままよ」
この時ばかりは流石に、輝に似てるなあなんて思ったり。ふてくされている患者さんの左腕に包帯を巻く僕の後ろ
で、恵さんは骨折した患者さんに副木を添えて右足を固定させている所。幾ら"因果応報"とはいえ、叫び声を聞くの がやっぱり忍びなくて。後の三人の患者さんの中には、折れた骨が肺に刺さりそうで危うく命を落とすか否かという人 もいた。
…五人の患者さんが運ばれてから、だしぬけに診療所が野戦病院のように様変わりした。本当なら、恵さんと玄斎
先生は秋珊瑚の実で漢方薬を作り、僕とあやめちゃん、すずめちゃんはそれを見学する予定だったんだけど。なんで も赤べこで諍いがあったそうで、鹿女(?)に殴り倒されるなり蹴り倒されるなりしてここまで深手を負ったんだとか。
「おいこら、んなきつく締め…痛たたた」
「あっ、ごめんなさい」
…恵さんの言うように、どちらに分がなかったかは判るような気がする。でも…うーん……人を見てくれだけで見て
いいのかな、っていう戸惑いもあるけれども。ほら、たとえば左之助さんみたいに男気でいっぱいだったり。きっと輝な ら、僕より棲み分け…というか見分けかはよく判らないけど…やっぱり、それが時々羨ましいと思えてしまう僕がい た。
「…?!」
ごほごほっ、と突然処置を済ませた患者さんの一人が咳き込んだ。とっさに振り向くと、さっきまでがやがやとお店
(赤べこ)の文句ばかりを言い散らしていた患者さんだった。
「あの、大丈夫ですか!?」
「…る……せぇ………ゴホ!」
…もっとも、大丈夫じゃないから診療所に運ばれたのに。そう声をかけられるのが辛いと判っていても、思いつく言
葉が何故だかそれしかなくて…ごめんなさい。項垂れているその患者さんは、ともすればサツマイモの色にも見えか ねないほど顔色が悪くて………僕や恵さんの顔は、まともに見えていないのかもしれない。
「…まったく、先見の明がないわね。こうすればどうなるかぐらい判らないのかしら。…聖くん、気道を確保して脈をと
って。それで脈拍が弱いようなら私か玄斎先生を呼んで」
「あ、はい!」
呆れ顔の裏で母狐がいたわるかのごとく、恵さんは声で僕に微笑んでいた。…どことなく後ろめたかった僕も、それ
とない励ましで少しは元気が出たと思う。うるさいなどと悪態をつく患者さんをよそに、どうにか寝かせてあごを持ち上 げた。これで少しは息がしやすくなったはず。人差し指と中指を首筋に当てて…うん、脈も大丈夫。…恵さんが悪態に 真っ向から立ち会えるのも、医は仁術だと根本から理を知っているからなんだよね。
「おーい、聖くんでも恵くんでもいいから休まんかね?昼飯ができたぞぉ」
…ぐるるるる。居間から呼ぶ玄斎先生の嬉しいお知らせが引き金になったのか、僕のお腹に棲んでいる野犬が恨
めしく唸っていた。…先に行ってなさい、と恵さんのお墨付きの目配せをもらって僕は診察室を後にした。…ああ、お なかすいた。
……ぐるるるるる。お昼より少し、長く唸ったような気がする。だから、早くお腹いっぱいになりたくて夢中でもぐもぐと
食べちゃうのかな…なんてね。一夜でいいから人間になりたいなあ、なんて思いながら枝に止まるリスとカラスに僕も 緋村さんも気付いていない。台所の外から見える黄昏れ時が、蜜柑色に隠しているから。
「はは、聖は何時でも元気でござるな。とりわけ、こうして夕餉を作るときのお主の顔は眩しく感ぜられてしまうでご
ざるよ」
「あはは、よく輝に言われます」
神速を真似てじゃが芋や人参をごしごしとこする僕の手を横目で見て、緋村さんはくすくすと笑っている。右手だけ
はまるで、千手観音に見えるせいかも。そんな緋村さんは穴蔵から出してきた豚肉を…やっぱり。到底僕がかなわな い速さで、さっと切り刻んでいる。
そう、僕と緋村さんは今夕餉のかれーらいすを作っている所。ふたりでやれば、作るのも片付けるのもあっという間
だよね。それに、ひとりで作るのと同じ時間をかけても出来映えも味も全然違うはず。…かれー粉の匂いを今嗅ぐと、 もう僕のお腹は手がつけられないかも。…むくむくと撓みながらも僕の中で膨れる、しゃぼんを割らないようにも気をつ けなくちゃ。
「弥彦、輝さん。お帰りなさい」
「おう、ただいま」
あっ、輝と弥彦くんが帰ってきた。お腹と戦いながら(?)夕餉を待ちわびていた薫さんが、今玄関でお迎えしてる所
かな。僕のことはいいから、かれー粉の匂いをたなびかせて輝の小指にするすると巻きつけておきたい…とは思った けど、間に合いそうになかった。
「…ねえ、輝さん?輝さんっ?」
「お前、まだアレなのか?なんか判んねえよなあ」
……?輝、どうしたんだろう。薫さんや弥彦くんの言葉から、緘黙な様子の輝が瞼の裏に見える。…やっぱり、おか
しいよね。何かくじけそうになっても、落ち込みはするけれど平素なら前向きな輝だもの。
「…聖、行ってもよいでござるよ。ここは拙者ひとりでも大事無いゆえ」
「…あはは、ごめんなさい。いってきます」
…僕の手を、緋村さんにちらりと見られていた。顔や言葉よりも先に、手は正直に僕の心情を喋っていたんだね。
…。夕陽にそっぽを向いたまま、輝は僕たちの部屋でだんまりとしたままだった。…何があったのかを、少しでもい
いから弥彦くんに聞けばよかったかもしれないけど……どうしても、気にかけずにはいられなかった。輝の気を察した 薫さんは、僕のほかに誰も入らないよう弥彦くんと緋村さんに言ったのかも。………誰も、声をかける様子はないか ら。
蜜柑色のはずの輝は、何処となくしなびているように見える。壁にぴったりと背をつけて、座ったまま向こうの壁をじ
っと射ていた。身体を置き去りにして、心此処に在らず……の輝。……思い当たる節がないだけに、何から話せばい いのか分からなくて………。
「…ねえ、何か嫌なことでもあったの?」
……。輝が射抜く視線は、決して壁から外れなかった。今は、目を合わせないほうがいいのかもしれない。まだ、誰
彼構わず黒焦げにしてしまいそうで。
「……うん。……あっ。僕、ここにいてもいい?」
………。これで、いいんだよね。話したくなければ、無理して話さなくてもいいんだもの。ふと話したくなったら、僕が
いるから大丈夫。…ひとりにしてよ、と言われてもきっと僕は言う通りにできる。……悲しくて辛くてどうしようもなくて、 誰の慰めもほしくない時があるんだって………百鬼さんや、小糸さん…………輝から改めて教えてもらったから。
「………知ってるでしょ。…街中で聞いた噂」
「……噂?」
…………。噂…か。……あ、そういえば……確か、帰りに街中でも似たような噂をしていたんだっけ。診療所に運
ばれた男たちの話そのもので、『雌鹿顔の女がお客さんを殴り倒したり蹴り倒した』とか、『その鹿女は誰彼構わず気 に食わない客に手を出す』とか言ってたような気がする。遅まきながら気付く僕が、少し恥ずかしかった。
…………?!まさか…………ね。…………まさかとは思いたかったけれど、胸の早鐘が僕の本音をあげっぴろげ
に喋っている。…………その『鹿女』、って…………
「…………"雌鹿顔の大女"は私のことよ。斎藤さんが私を鹿娘って呼ぶぐらいだから、道行く人にもそう見えるんじ
ゃないかしら」
……………。まるで人事のように、かつ僕に目を合わせず輝が言葉を紡いだ。…あげっぴろげに伝えたい情動を重
箱の底に追いやっている姿が、僕の瞼の裏に痛々しく移る。……あれほどまでの怪我を負わせたのが輝だったなん て。………という事実よりも、"因果応報"と言い放った恵さんの言葉が生き生きとしてきた。…………やっぱり、僕 がなんとなく思っていたことの通りだったんだ。
隙間風が冷たい。戸を割って入るその風は、世間が輝に向けている白い目だったのかも判らない。…余程、このこ
とで辛い目に遭っているんだよね。
「……………正直、あることないことで騒がれて頭にきてるわ。だけど…私がしたことだから仕方ないじゃない。客
の男五人をとっちめて、店の外に放り出したのは他でもない私だもの」
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